<山川>
準備(というより、日が近づいてくるにつれての緊張)がたいへんでしたし、何よりもフローも取れない、今が「否定2立」かどうかもわからなくなるくらいプレッシャーを感じました。
自分としてはもっと基本的なことがきちんとできるはずとおもったのですが、試合とはこんなものなのですね。
自分の説明したことがぜんぜん伝わっていなかったり、「詭弁」ととられたり、皆さんからいただいた意見は大変貴重でした。
モデルをするとこんなにいいフィードバッグを得られるのですね。
判定シートは、私の宝です。さらに分析をして、反省材料にしていきます。
ありがとうございました。
論題「日本は大学入試を廃止すべきである」
この論題は、かなりいい論題という感触です。
現実離れしているけれど、教育の本質を議論できそうです。
どういうことかというと、私の考えでは、この論題の中心には、
- (A)社会階層の再生産装置としての教育という争点があり、その反対として、
- (B)多様性、非-能力別クラス(untracking)
ということがでてくるのです。
これは、そのまま、公平/効率かという昔からあるテーマに一致しています。
肯定:高校生の専門性が高まる/大学の授業の質が高まる。
作戦家ですね。
(A)社会階層の再生産装置としての教育
あるいは、その変種(学歴社会)をはずされるとは、思っても見ませんでした。
ディベートレベルとしては、私の何倍も上回ると感じました。
これからもお手合わせ願いたいです。
否定:大学教育の荒廃/社会の不公正
私自身は、本質の議論をしようと、上のテーマを争点にしたかったのです。
正面からぶつかってかわされた感じです。
(A)がくると、どうしても「社会の不公正」が絡んでくるのですが、はずされると社会階層の議論の難しさを背負わねばならず、すぐ捨てました。
実は、争った争点のなかでは、「社会の不公正」がこの論題の中で議論すべきことなのですが、それを「詭弁」ととられたかたもいて、もっと反論できればよかったと反省しています。
もうひとつ、学力の「分散」ということに2つ感想があります。
ひとつは用語そのものに。
概念としては、偏差値という形で知られているはずですが、ピンとくるものではなかったようですね。
ワーディングにも気を使わねばと思いました。
また、具体的なイメージを皆さんにもっていただくのが大変ですね。
私は、京都の公立出身で、小学区制だったもので、学区の生徒はみな同じ高校に通うという状態でした。
高校3年生の学力の生徒と中学生の学力の生徒がひとつの教室で勉強するわけですが、「効率」という意味では最悪でした。
先生にしかられたから放火するというようなこともあったりして、正直なところ、学力と行動の相関はあたりまえに感じています。
その意味では、生徒も先生も不幸でした。
自分にとってそれがマイナスかというと、植木屋の親友がそこでできたり、プラスのこともあったので、よい・悪いの問題ではないと思ってます。
熱くなりそうなのでこのへんで。お許しいただければ、10分プレゼンテーションでこの論題を振返りたいです。
<太田>
今回(「大学入試廃止」についてのディベート)、私が重点を置いたのは、次の2点でした。
- A.ディベートのルールに忠実に沿うこと
- B.試合進行の全体をイメージしながら、スピーチすること。
Aについては、ほぼ、うまくいったかな、と思っています。
Bはやっぱり難しいですね。
私は肯定側で次のメリットを出しました。
- (1)高校生の専門性があがる
- (2)大学の授業の質が向上する
戦略としては(1)を攻撃してもらって、(2)を守る、ことを考えました。(1)は捨て石!?
否定側、山川さんのデメリットは次の二つした。
試合は、メリット(2)とデメリット(3)の戦いになりました。
私にとって予想外だったのは、(2)と(3)が同程度で発生した場合、(3)(デメリット)の方を重くみる判定が多かったことです。
冷静に考えると、授業が成立しなければ、質をうんぬん議論しても「意味がないなぁ」と思えます。
私には、大学の授業は自分で選べるんだし、つまらなければ出席しなければいいんだから、「授業崩壊」などという自体は想定しなくてもいいんじゃなか?
だから、議論しなくてもいいんじゃないか?という「甘い」考えがあったようです。
これも冷静に考えれば、肯定側の最大の弱点は、「学生の学力がバラバラになる」ことなわけですから、何らかの対策を事前に考えるべきでした。
(あとで資料を見返すと、そのことがよくわかります。
やはり反対側の立場からも真剣に考える作業が、ディベート の準備には必要なようです。)
とてもいい勉強になりました。やっぱり、ディベートは奥が深いです・・・。
<山川>
- > 今回(「大学入試廃止」についてのディベート)、
- > 私が重点を置いたのは、次の2点でした。
- > A.ディベートのルールに忠実に沿うこと。
- > B.試合進行の全体をイメージしながら、スピーチすること。
なるほど。私とは、少し重点の置き方がちがったのですね。
私が、前メールで「本質」の議論をしたっかったというのは、今年のディベート甲子園の最後の講評で、「口先人間になるな」といわれた方がおられ、それに対する回答を自分なりにしたかったからです。
つまり、「ディベートで正しい方向に議論できるはずだ」ということを実践したかったのです。
事実を確かめる議論という宇佐美寛氏の考えに近いものです(もっとも宇佐美氏はディベートに反対なようですが)。
お茶会の席で言っていた、「実験の前にディベートし、それを後で確かめるという教育ができるのでは、」というのは、事実を発見できないディベートは意味がないだろうという考えからです。
さて、今回のディベートでも実証研究が中心になると思ってました。
教育社会学者の刈谷剛彦を中心に議論できるだろうと(試合前に太田さんに)言ったのは、社会全体の、マクロな、実証的、中立的研究が重要な証拠になると思ったからです。
それで、刈谷剛彦「変わるニッポンの大学」中の、「多様な学力の学生」、「生活指導」、社会の不公正という意味の用語(失念)という唐突な用語をつかってしまいました。
いづれにしろ、議論の核になるアイディアを出すことに時間を注ぎましたので、振返ると、ディベート技術的に未熟だったと思ってます。